ペンギン・ハイウェイの映画に感動し、小説を読んでみての感想

   世間で(少なくとも私と私の周辺で)話題となっている、森見登美彦原作の爽やかな夏のアニメ映画「ペンギン・ハイウェイ」がとても気に入り、小説まで読んで思ったことを書いていきます。

 

【注意】この記事にはペンギン・ハイウェイのネタバレが含まれています。是非、まずはご自身で観て味わって頂きたい作品です。

 

 

 

 

 

 

 

 

・映画を観に行く

   8月19日、ペンギン好きを公言している私は、以前から気になっていたアニメ映画「ペンギン・ハイウェイ」を公開2日目にして観に行った。

   映画が始まるとすぐに沢山のペンギンが登場する。タイトル部分でのペンギンが街を歩き回るシーンはとても愛らしく、つい表情がほころんでしまう。しかし、直後には、とても研究熱心な科学の子アオヤマ君、アオヤマ君と仲の良いウチダ君やハマモトさんや同級生達、お父さん、そして明るいけれどどこかミステリアスでおっぱいが大きいお姉さん、魅力的なキャラクター達によって物語に引き込まれた。

物語はアオヤマ君を中心に、春から夏へと移り変わり少しずつシリアスな方向に向かう。そして、最後のペンギン達の行列は物語の盛り上がり、疾走感、作画の美しさなどアニメ映画として上質なものだった。お姉さんとの別れの後に流れる、宇多田ヒカル「Good Night」のピアノとエレキのアルペジオは最後のシーンから完璧な繋がりで、感動を増幅させたと思う。

色々な感情が起こり呆然と立ち尽くし、感想を文字に起こすには数日が必要だった。とりあえず帰りに映画のパンフレットと原作と宇多田ヒカルのアルバム「初恋」を買って帰った。

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アオヤマ君のノートの中身が沢山載っていて面白い。アオヤマ君、小4にしてスケッチ上手すぎである。

 

・映画の感想

   映画見た後にツイッターで検索すると「ペンギンハイウェイはおっぱい!おねショタ!」と言ってる人が多かった。これは同意できるのだが、ある意味で「ペンギン・ハイウェイ」というタイトルを読み上げただけのようにも感じられるのでここではそれらについて言及しないで感想を述べようと思う。

   ここ数年、「君の名は」や「バケモノの子」やどの夏のアニメ映画を色々観てきた。その中でもペンギン・ハイウェイは物語の完成度、美しさ、エンターテイメント性どれをとっても高く、また最もそれらの要素のバランスが良いと思った。押し付けがましい感動ストーリーでもなく、ストーリーも難解過ぎず単純過ぎず、観終わってからサラッと心地よい感動と寂しさが残る。非常に爽やかなのである。このサラッとした感動というのがこの作品の大きな特徴で、子供の頃の夏休みの終わりのなんとも言えない寂しさとマッチしている。まさに夏の映画に相応しいと言えよう。

   また余談のようになるが、アニメ映画に時々見える監督や脚本のフェチ部分がおっぱい好きの少年ぐらいであまり気持ち悪くないところも人に勧めやすいところである。

 

・小説の感想と映画と違うところ

   原作ありの作品の映画化は(特に小説は)映画化のときの改変が多いので、これだけ素晴らしい映画だが原作とどう違うのかと気になって小説も読んでみた。


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右は元々のカバー。映画を観た後だとアオヤマ君のイメージが少し違うように思える。

 

   小説を読むと、 映画は非常に原作をリスペクトし原作のシーンを再現していることがわかる。映画の冒頭の『ぼくはたいへん頭がよく…』の部分は原作と全く同じであり、その他のセリフなども全く同じセリフが多い。物語の構成も映画の2時間に収めるために凝縮されてる部分もあるが設定が違うようなことはない。

小説はアオヤマ君がノートに書いたものとして書かれている。時々メモのような部分があり複雑な物語が苦手な人も読みやすいと思う。アオヤマ君は「科学の子」であるから色々なものを客観的に見ている。一方で世界の果ては宇宙の彼方にあるのだろうということはわかっているが、なんとなく地球上のどこかにあるような気がして、そしてそこはカンブリア紀の生命の生まれたような池がありそれを観測する小さな研究所があるのではないかと思っている。このように直感的でロマンチストな面も持ち合わせている。また、映画以上におっぱいのことを考えている。

   映画との違いで私が最も述べたいのは、アオヤマ君の友達のウチダ君についてである。

   小説においてウチダ君はブラックホールに興味津々で小説前半ではいつもブラックホールのことを考えている。他にも宇宙や多世界理論などの知識に興味がある。アオヤマ君のようにいつもノートにまとめているわけではないが同世代の子供としてはとても賢い。アオヤマ君は「彼は時々とても寡黙になる。賢い人は喋りすぎないものだと思うので、僕も彼のようにならなければと思う。」というような風に書いている。彼は終盤において面白い仮説を話す。

『ぼくらはだれも死なないんじゃないかなって』

これは他人の死を認識することはできるが、自分の死は認識できない。そして自分の意識がない世界というものは存在しないに等しい。自分の意識は常に生きている自分にあり、自分が死ぬ世界は消滅する。ウチダ君が話す例をそのまま使うと、例えば、自分が大事故にあって死ぬか生きるかギリギリの状態になる。死ぬかもしれないし生き残るかもしれない。この時死ぬ方と生きる方に世界が分岐する。しかし、死ぬ方は死んだということを認識できない。だから常に自分の意識は死ぬかもしれない分岐の、生きている側にあるのではないか。という仮説である。

   この話は直後に物語の大きな動きがあるため深く掘り下げられるわけではないが、この物語の大きな謎の答えに近いものを提示しているのではないかと思う。

   この物語の大きな謎、それは一つは「海」。もう一つはお姉さん。海についてはそれなりにアオヤマ君は言及しているがお姉さんが何者だったのか、それは結局わからない。お姉さんは海辺の町で生まれ、両親の記憶もこれまで生きてきた記憶もある。それなのに人間ではない。これをウチダ君の仮説と合わせて考えてみると人間の意識の分岐となにか関係するのではないか。私もこれをしっかり説明できないのだが、なにか関連してるように思えてならない。こういうとき、ウチダ君のように頭の奥がツーンとする気がする。閑話休題

 

   この物語の印象というのは清純で爽やか、サラサラした感触に思える。アオヤマ君は大人顔負けの頭脳を持っているがその研究熱心な姿は子供らしくもある。自分の好きなものを突き詰め詳しくなる男の子は結構多い。私もそうだった。その延長であるから彼は明晰な頭脳を持ちながら子供らしさを我々に感じさせてくれる。彼が子供であるからこその爽やかさであろう。もしアオヤマ君が高校生なら、お姉さんの部屋のシーンはもっと湿った雰囲気だったし、最後のシーンでキスぐらいしていただろう。しかし、それぐらいお姉さんが人として好きだという気持ちは我々にも伝わってくる。プラトニックな愛の物語である。この物語の愛と映画の主題歌「Good Night」について書こうと思ったが長くなったので、それは今度にしようと思う。

 

   最後に、小説では他にもお姉さんが教会に通っていたり、アオヤマ君の世界の果てのイメージだったり、何かを示唆しているような描写が沢山散りばめられていて読んでいてとても楽しい。もし映画を観て面白いと思ったり、「この謎を解けるか?」というお姉さんの問いに挑みたい、作者が「海」やお姉さんという存在がどんなことをイメージしているのか知りたいと思う方は是非小説を読んでほしい。